魚の凍結から始まった 冷凍技術の歴史と現在
現代の食品流通は冷凍に支えられている
19世紀後半に冷凍装置が開発されてから現在まで、冷凍技術は飛躍的に向上し、食品の流通を促進してきました。現在では食品原料の輸出入や、食材の輸送、冷凍食品の製造・流通など、さまざまな場面で冷凍技術が活用されています。
冷凍技術を活用することにより、私たちのライフスタイルは大きく変わりました。本来は生産地近辺でしか口にできなかった魚介類の刺身が手軽に近隣の飲食店で食べられるようになり、チェーンの外食店ではアルバイトスタッフによる調理でもいつでも同じ品質の料理が味わえます。冷凍食品を家庭で活用することで、買い物や調理の手間も省くことができます。
今や生活になくてはならない存在となった冷凍技術の歴史を、社会の変化と共に振り返ってみましょう
四方を海に囲まれ漁業が盛んだった日本にとって、魚介類の鮮度を維持したまま長期保存することは大きな課題でした。
明治初期にトロール漁船がディーゼルエンジン化され遠洋漁業が可能になると、獲った魚を港に持ち帰るまでの間、いかにして鮮度を維持するかが問題になりました。当時は氷を使って鮮度の維持が行われていましたが、それには限界がありました。
漁船に緩慢冷凍の冷凍装置が導入されるようになったのは、1923(大正12)年になってからのことです。
その間、陸上では獲れた魚に冷凍加工を行い流通させる試みが行われていました。1911(明治44)年にデンマークで食塩水によるブライン冷凍機が開発され、急速冷凍が行えるようになると、1919(大正8)年には、葛原猪平(くずはら・いへい)によって魚を冷凍加工する冷凍工場が北海道に建設されました。同年には国産の冷凍機が開発されます。
このように、大正時代半ばから国内外で魚介類の急速冷凍が徐々に広がっていったのです。1933(昭和8)年には、魚介類のフィレを急速冷凍できるコンタクトフリーザーが漁船に導入されるようになり、魚介類の品質は飛躍的に向上していきます。
この時期の主な冷凍関連トピック
1911(明治44)年
デンマークのオッデセンが食塩水ブライン冷凍機を開発。急速冷凍を実現。
1919(大正8)年
葛原猪平が北海道に冷凍工場を建設。冷凍魚を生産。
国産の冷凍機が生産される。
1923(大正12)年
関東地区の工場にブライン式冷凍機導入。
共同漁業が漁船に冷凍装置を導入(緩慢冷凍)。
1930(昭和5)年
アメリカのバーズアイがコンタクトフリーザーを開発。
1933(昭和8)年
漁船にコンタクトフリーザーが導入される。
品質向上と冷凍食品の開発
戦後になると、食料需要の増大や経済成長を受けて、保存のきく冷凍品への需要が高まるようになりました。
朝鮮戦争後の1955(昭和30)年ごろから高度経済成長期に入った日本では消費が活発になり、食料品への需要も増加したことで、冷凍品の消費も年々増えるようになりました。それに合わせて冷凍品の品質管理についても整備されるようになります。
1959(昭和34)年には食品衛生法を具体化した冷凍食品の規格基準について厚生省告示が公布され、マイナス15℃以下での保管が義務づけられました。1965(昭和40)年には科学技術庁資源調査会がいわゆる「コールドチェーン勧告」を行うことで国内各地の低温流通ネットワークの整備が行われます。その後、1971(昭和46)年には、1975(昭和50)年以降は冷凍品の流通保管温度をマイナス18℃以下とする取り扱い基準が策定されるようになり、現在の冷凍流通の基礎ができあがりました。
このように、流通網が整備されるなかで、冷凍食材に脚光があたったのが1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックでした。選手の食事を提供するための大量の食材を調達する必要があったため、冷凍・解凍を行った食材が活用されたのです。国内外のオリンピック関係者が冷凍食材を使った料理を口にしたことで、その評価が向上しました。このことがきっかけで、ホテルやレストランで冷凍食材の使用が拡大するようになりました。
同時期の1960(昭和35)~1970(昭和45)年代には家庭用電気冷凍冷蔵庫が普及しています。学校給食をはじめとする業務用食材として活用されていた冷凍技術は、家庭用の食品にも活用されるようになりました。
その後、1970年代には冷凍茹で麺が開発され、1980年代に食品をバラ凍結することができるIQF冷凍機が生まれ、冷凍のチャーハンやピラフが発売されると、業務用の食材として冷凍品を活用する動きが急激に広まりました。
当時は、ファミリーレストランや外食チェーンが、複数の店舗の食材加工や下調理を1か所で行い、各店舗に食材を届けて調理の手間を省く「セントラルキッチン方式」を採用し、店舗数を拡大していた時期でもあり、冷凍技術は盛んに外食産業に取り入れられるようになります。喫茶店等での軽食の提供にも冷凍食品が盛んに活用されるようになりました。
また、冷凍米飯の需要の拡大に合わせて、IQF装置の製造を得意とするガス会社が冷凍食品の生産に参入するようになるなど、冷凍食品を取り扱う会社も増加しました。これらの動きと並行して、豊富な食糧需要に応えるために、魚介類の保存・輸送の現場での冷凍技術も向上していきます。
冷凍による品質維持が難しかった甲殻類を注水冷凍することでトラブルを防止する手法や、大型の切り身の急速冷凍による全国流通の実現、超低温保存によるマグロの身の褐変の防止などの手法の開発、魚介類の冷凍変性を抑制する物質の発見などにより、魚介類の流通と品質は1980(昭和55)年代までに大きく改善しました。
現在活用されている冷凍機や冷凍技術の素地はこの時期に完成したといってよいでしょう。
この時期の主な冷凍関連トピック
1959(昭和34)年
食品衛生法を具体化した冷凍食品規格基準についての厚生省告示。マイナス15℃保管を義務づけ。
1964(昭和39)年
東京オリンピックで冷凍食材を使用。ホテルやレストランでの冷凍食材活用が拡大。
1965(昭和40)年
科学技術庁資源調査会「コールドチェーン勧告(食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告)」公布。
1960~70(昭和35~45)年代
家庭用電気冷凍冷蔵庫の普及。
1980(昭和55)年代
IQF冷凍機が開発される。バラ凍結された冷凍米飯の普及。
冷凍食品の需要増大と調理機器の進化
1990(平成2)年代以降は、冷凍食品の味や食感の向上が目覚ましかった時期です。1980(昭和55)年代までに調理食品を冷凍する技術が高度化し、食品をおいしく調理すれば、解凍後の再現性が高く保てるようになりました。
しかし、当時の冷凍食品の味は現在のものと比べて食感が劣っていました。たとえば、餃子の具が過剰にペースト状で食感が悪くなっていたり、チャーハンがベタついていたりした記憶がないでしょうか。これらは、食品を大量生産する技術が未熟だったために起こっていたことです。
食品を冷凍する必要が少なかった時代には、食品の製造加工はチルド輸送が中心だったため、日本各地の食品工場で中規模の量の生産が行われていました。その加工過程には手作業が多く残るぶん、手作りの惣菜特有の食感が保たれていました。
一方、長期保存できる冷凍食品は、工場機能を集約して1か所で大量の食品を製造し、全国に輸送することが可能です。そのため、調理機械を使った大量生産が行われますが、初期の大量生産用の調理機械の仕様では手作りの食感を残すことは難しく、どうしても味が劣ってしまう状態でした。
この状況に対して、冷凍食品需要の急激な伸びを受けて機械メーカーと冷凍食品メーカーによる調理機械の開発が進んだ結果、冷凍食品の調理加工技術が進歩し、現在のような手作りの食感が残るおいしい冷凍食品を製造できるようになりました。
冷凍食品のトレンドは安全性の時代へ
2000(平成12)年以降は、冷凍食品の生産量がピークに達するとともに、その需要を満たすために各メーカーが生産工場を海外に移転するなど、より規模を拡大した生産への試みが行われた時期です。
そんな中で起こったのが冷凍食品への毒物混入事件でした。2007(平成19)年には中国で生産された冷凍ギョーザを食べた計10人が下痢などの中毒症状を訴え、ギョーザからは殺虫剤メタミドホスが検出されました。
2013(平成25)年には国内工場で生産された冷凍食品から農薬・マラチオンが検出される事件が起こり、冷凍食品の安全性に対する信頼が大きく失われました。事件が起こった当時の冷凍食品の生産・消費は大きく落ち込み、その後冷凍食品業界は原料や加工地、生産管理体制を大きく見直し、消費者の信頼を回復することに腐心しました。
消費者が冷凍食品を選ぶ際にも、価格やおいしさだけでなく、産地や安全性が重視されるようになりました。現在の冷凍食品メーカーの大きな課題の一つは、大規模化の弊害として発生していた経営層と生産現場のコミュニケーションの欠如を改善し、安全な生産管理体制を構築することになっています。
冷凍技術の変遷は社会を映す鏡
このように、冷凍技術や製造現場での品質向上は、日本社会の移り変わりと連動して取り組まれてきました。
共働き家庭の増加や、核家族化、食に対する衛生や安全性の重視など、社会環境が刻々と変化するなか、冷凍技術や冷凍品の製造現場もそれに併せて変化し、技術や品質が向上していくはずです。
また、冷凍技術を活用した製品開発も、社会の変化に沿った形で、消費者の需要に応えながら行われていくべきでしょう。
参照
杉本昌明「産業界における水産物冷凍の歴史と最新動向」『水産物の先進的な冷凍流通技術と品質制御』(恒星社厚生閣、2017)